木ノ花劇場 其ノ壱


 坂薙椛(十六歳)の朝は約二キロの山道を走ることから始まる。
 小豆色の野暮ったいジャージに身を包みハンドタオルを襟巻き代わりに首に巻きつけ、両手には二枚重ねの軍手を装着。唯一の装飾品とも言うべき橙色のスポーツシューズは手入れも行き届いた良品だが、靴だけで少女の見栄えを劇的に向上させることは不可能である。

 踏み固められ舗装された道と呼べるものは期待できない。
 藪に覆われた斜面は複雑な起伏を描き、覆う笹薮は三歩先の地面の有無さえ曖昧にさせる。笹葉に隠された地面を迂闊に進めば、柔らかい腐植を踏み抜いて足を捻るだろう。そうでなくとも険しい、鹿は駆けても馬は進めぬ斜面である。

 その道を、椛は駆ける。
 鹿よりも優雅に、猪よりも荒々しく。天地別なく突き出す枝葉や蔓に行く手を塞がれ真っ直ぐ進む事など十歩もかなわぬ場所でありながら、そこが陸上競技場のトラックであるかのように椛は走り抜けた。

 腰には、蜜柑を吊るす網袋に入った鶏卵が十と三個。
 産み立てと思しきそれは当然のように剥きだしで、そのまま平坦な場所を歩くだけでもひとつふたつが割れ砕けても不思議ではない。あるいは網袋が鶏卵十三個の重みに耐え切れず破れてしまうかもしれない。
 まして此処は山中である。
 常人ならば道程の半ばどころか最初の数十歩で転倒し、野山と衣服に溶き卵を馳走している。無論この鶏卵は修行の道具のみならず、彼女および坂薙家の大切な朝食として失うわけにはいかない。

「とうっ」
 少しばかり大げさな掛け声と共に椛は山道を抜けて坂薙の敷地に戻った。ジャージには草の葉どころか蜘蛛の巣ひとつ貼り付かず、鶏卵は腰に下げた網袋の中で亀裂ひとつ生じていない。次いで椛は縁側に敷いた座布団の上に卵を横一列に並べ、虚空で手を振った。

 凛。

 硬く澄んだ音が一度だけ鳴ったかと思えば、その手に諸刃で幅広の短剣が握られていた。旧い山岳の民がウメガイと呼び習わすそれを逆手に握り、椛はやや腰を落として身構える。半拍の間を置いて短剣は一閃されるが切っ先は鶏卵より一尺は離れ、どれほどの勢いをつけようとも並んだ卵は微動だにしない。しかし椛は満足そうに頷くと首に巻いたタオルを外し、ようやく噴き出た汗を洗い流すべく朝の沐浴に出かけた。



 坂薙家当主秘書、葵若葉(二十三歳)は朝の献立を目玉焼きと決めていた。
 無論坂薙家の財力および冷蔵庫の余剰食材を用いれば、より豪華で多彩な料理を食卓に並べる事も難しくはない。強いて彼が朝の食卓に目玉焼きを選んだ理由を挙げるとすれば、勤め人たる若葉氏の雇用主が朝食にそれを望み、孫娘たる椛嬢が修行の過程で強奪した鶏卵を無駄にすることなく台所に戻していることか。

 あくまでも無我無心。
 目玉焼きを焼くのに細かい理屈も思想も必要ない。ダークグリーンを基調としたスーツに純白の割烹着を重ねた優男の姿は、土間の調理場と見事な調和を醸し出している。もっともそのような美意識など考えたこともない若葉は黙々と朝食の準備を進めている。油を多めに敷いて熱した鉄鍋に十三個の鶏卵を割り入れ。
 しばし固まった。

 鉄鍋の上ではいままさに固まろうとしている卵黄は、菊花の御紋のごとく分断されていた。
「お見事」
 短く唸り、若葉は調理を再開した。