(一)


 鬼がいる。

 憤怒の形相の鬼がいる。

 鬼が微笑みをたたえ慈悲の眼差しを見せるとすれば、それは菩薩という名の鬼なのだろう。菩薩ほどの鬼は世にそうはおるまい、角も持たず牙も持たず御仏の慈悲で全てを救ってしまう恐るべき鬼だ。菩薩が慈悲を捨て戦いを挑んでくれば、羅刹の類であろうと生き残るのは難い。

 だが目の前にあるのは憤怒の鬼だ。
 泉の底にあって炎を絶やさぬ激情に支配された鬼だ。唇を歪めまなこを寄せ鼻梁は盛り上がり額に筋が浮き、食いしばる歯はむき出しとなり突き出した二対の犬歯が牙のように伸びた鬼だ。人が持てる憎しみの全てを身の内に宿し、生きようという思いと世界への憎悪を共に抱えてしまったが故に果てることも許されず変質を迎えた鬼だ。

 菩薩ではない。羅刹の類でもない。
 鬼は地を鳴らし、道を歩く。肉瘤のような角が隆起し、拳の一振りで熊を屠るような巨躯を揺らす。だが一千年余の昔ならいざ知らず、夜闇の濁るオフィス街に鬼が現れるなど信じられる話ではない。

 ずむ。

 地を揺らす鬼を見上げた勤め人の一人は、仕事を終えた帰りに一杯引っかけた己がひどく酔ってしまったのかと考えた。四十に差し掛かった勤め人は酔っていたためか逃げるのも忘れ、迫る鬼を前に茫然とし、その後にこれが何かの撮影ではないかと考えた。そうでなければ夜の街に鬼など現れまい。
「よ、予算の少ない日本映画じゃねえなぁ。やっぱり時代はハリウッドか?」
 出てくる言葉がありきたりなのは、驚いている証拠だった。そこにあるはずのない存在を前に勤め人は驚き、驚いてしまったことを何故か恥じた。鬼は勤め人の存在など無視し、その眼前を通り過ぎる。瓦のような皮膚より発する熱気は小さな陽炎を生み、勤め人の頬を僅かに焼く。
「熱いじゃねえかバカヤロウ!」
 酒の勢いも借りたのだろう、声を震わせながらも勤め人は強がって鬼を蹴ろうとした。ところが安物の革靴は鬼の身体をすり抜け、よれよれのスラックスは引火して一気に燃え上がる。火だるまとなった勤め人は悲鳴を上げながら転げ回り、慌てて駆け寄った他の通行人がそれを消し止めようとする。鬼は構わず進み、しかし数歩で止まる。

 道の先には一人の少女。
鬼の面が憤怒の形相ならば、こちらは凛とした修羅姫のそれに近しい。唇を真一文字に閉じ正面より見据えているが、菩薩の如き不可思議なる雰囲気もある。やや古式のセーラー服に身を包み髪を簡素に束ね、夜風に襟袖を揺らせながらいずこより姿を現し、鬼の前で歩みを止める。あまりにも静かで流れるような動きだったので、道行くものは少女もまた妖の類ではないかと思ったほどだ。

「こんばんわ」

 気負いもなく少女は鬼に声をかける。まるで散歩途中で同級生に出会ったかのように、澄ました顔だ。
「逢魔が刻は既に過ぎ、丑三つ刻にはまだ早い。我が物顔で通り抜けるには、御同類があと九十九はほしいところ」
 口調は軽く、眼差しは鋭い。制止しようとする周囲の声に耳を貸すことなく、セーラー服の少女は一歩また一歩と鬼へと歩み寄る。尋常ならざる気配を感じ取ったのか鬼は歩みを止め、己の腰ほども背丈のない少女をゆっくりと見る。鬼にとって少女は路傍の石ではなく、歪めた唇を一文字に戻し、鬼は唸る。獣の唸りではなく、智あるものの咆哮である。

「あるいは、なりたてで勝手も知らないか」
 返事はない。
 少女もまた返事を求めたわけではない。少女は右の手で虚空にある何かを掴み、そこに左手を添えやや腰を低くして身構えると一呼吸の間を置いて手首を返し、一気に振り上げた。

 どさり。

 丸太ほどの鬼の右腕が地面に落ち、アスファルトを焦がして消えた。鬼は悲鳴を上げ、あまりにも滑らかな傷口を押さえるとうずくまる。まるで長大な刀で鬼の腕を切り落としたようにも見えるが、少女の手には何も握られてはいない。
 鬼が哭く。
 驚いたことに鬼の声は甲高く、子供と表現してもおかしくないほど若い女性のものだ。傷口からは蒼い炎が血の代わりに噴き出し、傷の痛みに憤怒の形相は崩れる。

 凛。

 硬く澄んだ鈴の音が、何処からか聞こえる。盛り上がった鬼の肉面が姿を変え、年端もいかぬ小娘の泣き顔になり、鬼はそのまま夜闇に融けた。後に残るのは踏み割られた路面の傷と、焦げたアスファルト。辛うじて死を免れたものの大火傷を負った勤め人。人々は警察に通報するのも忘れ、いや、自分がたった今見聞きしたことの真偽さえ果たして何処まで信じてよいものなのかと困惑し。
「……あの女の子は?」

 気付けば、件の少女はその場より姿を消していた。






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