(五)


 意識を取り戻した夕木ひとみは三日後に退院した。
 倒れた原因が不明ならば、目覚めた理由も不明である。医師の言葉を信じれば、養生する限り衰弱の後遺症に悩まされることはないという。あるいは精神的なものかもしれないと、申し訳無さそうに医師は語る。
「健康なら、それに越したことはありませんよね」
 医師の言葉に、ひとみは少し疲れた笑顔でそう答えた。身体に異常がないのなら回復は難しくない、普通に暮らせるのなら、それが一番だ。致し方なかったとはいえ入院生活を強いられていた彼女は、身体よりも心の疲労が大きいのだと誰の目にも明らかだった。
 面会謝絶が解かれて同級生たちが見舞いに来るまで、ひとみは祖母と一緒に泣いていたのだから。

 彼女の両親が退院の日まで見舞いに訪れることはなく、電話の一本さえ寄越さなかった。祖母はあまりの情の薄さに怒り、病院を出たひとみは「今更よ、あの二人は」と軽く流した。
 彼女が大きなバッグに抱える荷物の大半は、同級生達の押し付けた見舞いの品や宿題の山だ。何のために使うのか分からないガラクタも多数混じったそれはバッグのあちこちから飛び出している。気遣う祖母はタクシーで帰ろうと何度もいうが、ひとみの返事はいつも同じだ。
「だめよ、おばあちゃん。タクシーは贅沢、バスで帰りましょ」
 しかも祖母を老人用の優先席に座らせ、自分は立っている。
 バスの車内は程々に込み合っており、優先すべき老人や妊婦の数が目立っていたのは事実だ。数日前まで生死の境を彷徨っていたとは到底信じられないほどの体力を持て余し、ひとみは当たり前のように吊革を掴んでバスの窓越しに街の景色を眺めている。

 凛。

 突如、鈴のような硬く澄んだ音が車内に響く。周囲の景色が色彩を失い、常客はおろかバスを含めた全てが動きを止める。そうしてモノクロの世界にただひとり色を持ったまま存在するひとみの前に、小さな鬼が現れた。

「それでいいのかい」
 囁くような、鬼の言葉。額に角の生えた赤子の鬼が、バス車内に並ぶ人の間をゆっくりと縫うように歩いてくる。衣服もつけず羊水をあびたままの鬼は髪の毛を額に貼り付け、開いてもいないまぶた越しに、ひとみを睨んでいる。

「両親が憎くはないのかい」鬼は繰り返す。
「お前さんを捨てて、後先短い婆に押し付けた両親だ。いいや、親としての義務も果たしていない、お前さんの製造元か」
 唇を歪ませ笑みを浮かべる鬼。見た目は赤子と変わりないが、表情は卑屈な大人のもの。無垢であるはずの赤子が見せる邪相に、ひとみは本能的な不快感を抱く。
「憎め。簡単なことではないか、もう一度全てを憎むだけで良いのだ。そうすれば」
「そうすれば?」
 不快ではある。
 不快ではあるが。

「憎み続けるのって、体力要るのよね」
 興味なさそうに呟いて肩をすくめるひとみ。生理的な不快感はあっても、鬼を恐れる気持ちはない。
「どっちみち親離れしていい年頃じゃない、わたし」
 我が事ながらと溜息をつくひとみ。
 元より仲の良い家族ではなかった。
 根っからの仕事人間で、子供の扱いにも困っていたような父と母だ。子供に暴力を振るわなかっただけでも、彼らはよくやった方かもしれない。現に彼らは毎月の養育費を祖母の家に振り込んでいる、たとえそれが彼らの世間体を守るための手段だとしてもだ。
「世の中にはそういう人もいるのよ、うんざりするくらいね。たまたま、わたしの両親もそうだったって話よ」
「憎まずに生きられるというのか」
 試すように、嘲るように、鬼が吐き捨てる。

「時々憎んで、それでも色々やって乗り越えるのよ。人間って生き物は、きっとね」
 昏睡状態から回復したとき、泣いていた祖母。見舞いに来てくれた同級生達。バッグに詰め込まれたガラクタの山をぎゅっと強く抱き、ひとみは静かに答えた。

 凛。

 ひとみがそれを口にするや、鬼は悔しそうになにかを罵りながら姿を消した。
 世界は再び彩を取り戻し、急停車したバスの中で彼女は姿勢を崩す。
「っ」
 不意を衝かれたため、転倒しそうになるひとみ。しかし、咄嗟に差し出された手が彼女の腕を掴み、引き上げる。
「大丈夫か」
「え、ええ。ありがとう、ボーっとしてたみたいです」

 古風なセーラー服に身を包んだ女性がそこにいた。視線は鋭く凛々しい面立ちだが、他人を拒絶するような刺々しさはない。初対面のはずだが、見覚えがある。
「あのー」
 意を決するひとみ。
「以前どこかでお会いしましたか?」

「病院で」椛は静かに微笑む。「尊敬に値する友を見舞いに出かけた病院で、君を見かけたことがある」
 病み上がりは養生した方がいい、祖母殿を心配させてはいけない。椛は軽く会釈すると、停留所を少しばかり超過したところでバスを下車する。

「そっか、病院で逢ったのか」
 妙に納得したひとみ。
「おばあちゃんも、ひょっとして今のひと知ってた?」
「一度だけ、お世話になったかもしれないね」
「……おばあちゃん?」
 祖母は泣いていた。
 どうして祖母が泣き出したのか彼女には分からなかったが、ひとみは祖母が泣き止むまで待ち続け、目的地を通り越して終点まで乗り過ごす破目になってしまった。


 それ以来、この街に鬼が出たという話はない。




<壱ノ話 了>







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