(三)


 病室で老婆がひとり泣き崩れている。
 化粧することも、ほつれた髪を整えることも忘れて、しわとひびだらけの手で顔を覆い老婆が泣いている。頭髪は白髪が大半を占め、まぶたは赤く腫れ、それでもなお彼女は泣き続けている。
 信じがたいことだが、十日前まで彼女はこれほど老い衰えてはいなかった。なるほど彼女は還暦間際であり決して若いとはいえない。しかし今の彼女は七十八十を過ぎたような老け込みようであり、生命の源が抜けてしまったような様である。老婆もそれを自覚しているのだろうが、だからといって泣き止むことはできない。

 たった十日。一夜の嘆きが一年の嘆きに勝ったとでもいうのか、ただただ老婆は泣いた。
 己のためではない。
 老婆の前には、少女が眠っている。布団に覆われてはいるが、いくつもの針が柔肌を刺し貫き、管が差され、電極が肌に吸い付き、装飾のないベッドの横に備えられた生命維持の機械につながっていた。呼吸は自発的に行われ、心臓も正常に動いている。透析や輸血を必要とするほど内蔵に深刻な損傷はなく、骨折もない。
 医師は、少女の身に何の以上も見出せなかった。断じて医師の落ち度ではない、彼らはできる手段を尽くし、その上で答えを出したのだ。少女は眠り続けている、いつまで眠っているのかは誰にも分からないと。
 そして、

「身体の衰弱が進んでいます」
 医師は残酷な推測を口にした。眠っているだけの少女は、ただそれだけで生命としての力を消耗していたのだ。医師の見立てで、あと十日。これが続けば少女はもはや生きてはいないという。
「ご家族の方は」
 医師は尋ねたが、老婆は首を振った。少女の両親は半年前に離婚し、今も仕事が忙しいからと治療費のみを老婆に送るのみで顔を見せようともしない。余命十日と宣告され連絡をつけても、二人は駆けつけることを躊躇している。打つ手がないのなら、駆けつけることに意味はない。むしろ別れた相手と自分を未だに結ぶしがらみが消えると思っているのかもしれない。
 情や絆ではなく、世間体のために娘の治療費を払っていたというのか。  老婆は泣いた。己の無力に泣いた。少女を救えるのならば地獄の悪魔に魂を売り渡しても構わぬとさえ思っているが、悪魔は老婆の前には現れない。いかに天の御使いであろうと無能者ならば何の救いにもならぬ。老婆に必要なのは、少女を目覚めさせ死神を退ける手段だ。

「人はなにをもって生き死にの別をつけると思われるか」

 医師のものではない、女の声。看護婦見習いの一人だろうか、声は若いが口調がやけに堅苦しい。老婆は、その不思議な質問に戸惑い泣くのを止めた。
「夕木ひとみは心臓も動いているし脳波も正常です。内臓に損傷もなく、健康体と呼んで差し支えない。その彼女が今まさに命を落とそうとしているのは、どうしてだと思いますか」
 答えようもない。答えられるはずもない。老婆は少女、夕木ひとみが眠るベッドのシーツを強く握る。
「御祖母さん、これは重要な質問です」
 若い女、病室にいつの間にか現れた坂薙椛が老婆の背に声をかける。医師も看護士も、彫像のように動かない。呼吸する音さえ聞こえず、生命維持の器具の機械音さえ老婆の耳には届かない。
「あなたは夕木ひとみの生存を願われますか」
 椛は二通の紙片を老婆の前に置いた。死亡許諾証と印刷されたそこには、ひとみの両親の名と捺印があった。老婆は絶句し、文面を何度も何度も口に出して読み、その上で彼女の両親の署名と印が偽物ではないかと疑った。

 偽物だと思わなければ気が狂いそうだった。
 書類は、夕木ひとみを殺害するための手続きだった。死刑判決を受けたものでも犯罪者でもない彼女の生命を、公的機関が奪うための書類である。
「ご両親は彼女の生存を希望されませんでした。ですが彼らが看護を放棄している以上、決断を下されるのは祖母であるあなたの意思です」
 人の生き死にを決めるその場において、椛の口調は穏やかだった。これが威圧的な、あるいは事務的に事実を告げるものであれば老婆は椛に掴みかかって殴っていたかもしれない。だが椛の言葉には、ひとみと老婆への敬意があった。理不尽な現実に全てを奪われようとしている少女と、その最期を看取ろうとしている祖母への強い想いがあった。
「生命は死を逃れえぬ存在です。満足できる生涯を送り納得のできる死を迎えられるものは、この世においては数えるほどもありません。たとえ死に至る眠りより解き放たれたとしても、家路に着く前に理不尽な死が彼女を再び襲うこともあるのです」
 それでも、あなたは御孫さんの生存を願われますか。

「この子が生まれたとき、本当に嬉しかったわ」
 振り返らず、老婆は答えた。
「いのちってのは続いていくものなんだ、自分の産んだ子が大人になって新しい命を産んで、そうやって過去と未来がつながっていくもんだって。子供に恵まれなかったから、孫もたった一人でね……この子は何も悪くないのに、どうして死ななきゃいけないのさ」
「彼女の生存を希望されるのですね」
「当たり前だよ」短く反す老婆「どうしても命がほしいのなら、ひとみじゃなくて私を殺しなさいよ。私みたいな老人が一人くらい消えたところで世の中なにも変わりはしないんだからね」

 反応はなく、代わりに空を裂く刃の音が一度だけ唸った。
 直後、病室の気温が数度下がった。暖房が効いたはずの病室に訪れた冷気に、老婆は何事かと背後の椛を見ようとする。しかしながら既に椛の姿は病室にはなく、閉じかけた扉の隙間から彼女のものと思しき靴音が遠ざかっていくだけだ。

 やがて慣性で動き続けていた安っぽい扉が完全に閉まると、あれほど静かだった病室に機械音や医師の声と動きが蘇る。ひとみの体調を示す各種機器を調べていた看護士が、先ほどの医師の宣告を覆すような数値を見出して歓喜の声を上げた。
 医師は慌てて聴診器を当て、あるいは追加の検査を始めようと老婆の肩を揺さぶるようにして現状を告げる。
 衰弱していた身体が持ち直し始めている、回復の兆候が様々な形で現れ始めたから決して絶望しないで欲しいと。
 数分前とは正反対である医師の言葉に驚く老婆は、椛の後を追うことを忘れた。また看護士の一人はベッドの上に糸くずの塊が乗っているのを見て、検査の邪魔になるからと丸めてゴミ箱に放り捨てた。塊を掴む時にそれが糸ではなくごく小さい幅に切断された紙だと気付いたのだが、看護士はそれ以上の意味をそこに見出すことはなく己の仕事に没頭した。



 夕闇が街の半分を覆っていた。
 東の側は既に藍色の闇に包まれ、紅葉をはじめた街路樹の枝が夜風に揺れる。
 いつもと変わらぬ街の景色。
 いつもと変わらぬ街の人。

 昨夜に鬼が暴れた傷あとには青色のビニールシートが被せられ、工事中と記されたトタンの看板が立てかけられている。一向に持ち直そうとしない景気のためか、あるいは集団幻覚という一言では片付けられぬ破壊劇ゆえか、灰褐色と茜色が混じりあう街にあってビニールシートは異彩を放っている。通り過ぎる者も怪異を伝え聞いているのだろう、視界にそれが入るや慌てて顔を背けたり別の道へと進もうとする。
 茜でも藍でもない、紫の夕闇。

「なるほど。今度は時を外さずに済んだようだね」
 ビニールシートから滲み出す闇より再び浮かび上がる異形の鬼。
 その出現を知っていたように椛は鬼の前に立っていた。

 凛。

 紫の闇がすべての色を奪っていく。道行く人も建物も、椛と鬼を除く全てを闇が飲み込み消していく。そこに色彩をもって存在するのは、椛ただ一人である。
「腕一本落とした以上、生気を求めて人の街に降りるのは必定」
 虚空を掴む椛。
 凝集する闇より、鞘つきの刀が一振り現れる。古式と思しき造りのそれは、椛が操るにしては少しばかり大ぶりである。だが彼女は構わず、二尺六寸の大太刀を鞘より引き抜くと片手で軽々と振り上げた。
「今宵は私が闇に飛び込ませて頂いた。鬼よ、貴様に逃げ場はない」

 凛。

 鈴の音にも似た音を大太刀は奏で、戦いの火蓋は切って落とされた。






/ / / 三/