(二)


 霜が下りるにはまだ日のある秋の朝だった。
 ごくごく当たり前の県立高校に、沢山の生徒が通っている。ごくごくあたりまえの制服は濃紺のブレザーを基本としたもので、その柄が時代遅れになってから採用されたという、よくあるデザインだった。

 いや。
 濃紺の海の中に、異色が一つ。

 市内では珍しいセーラー服の襟が、ポニーテールと一緒に揺れている。近頃は見かけないオーソドックスなセーラー服だったし、ちょっとした男子並の背丈があるので、相当に目立つ。凛とした面立ちもあって、女子高生というよりも舞台劇の女優という印象さえある。道を歩けば百人が百人とも振り返り、それでいて声をかけるには躊躇してしまう。そういう美しさを持った少女だ。
 だが県立高の生徒たちは少女の存在に気付かぬように歩いていく。指差すことも視線を向けることもしない。
 少女もまた、それが当たり前であるように校門を過ぎる。服装検査をしていた教師たちは女生徒の一人を捕まえスカートの丈が短すぎないかねと苦言を呈するが、セーラー服の少女の存在には気付かぬようだ。注意された女生徒も同じで、自分の不注意を呪いつつ説教が短時間で終わることを願っている。
 スカートの丈が短い女生徒、教師に藍田モモコと呼ばれた小柄な彼女は今更ながらに己のスカートの丈が気になったのか学生鞄で尻を隠すようにして玄関へと急ぐ。そこにはセーラー服の少女が立っており、モモコが上履きに履き替えるのを待っていた。

「おはよう、藍田さん」
 指を鳴らし、セーラー服の少女が声をかける。
 直後、モモコの身体が硬直し眼球を震わせる。他の生徒は少女とモモコの存在に気付くこともなく、世間話など済ませながら始業直前の教室へと駆け込んでいく。
 数秒が経った。
 モモコはゆっくりと身体を動かし、屈託のない笑顔で少女を見た。
「おはよう、坂薙さん。早くしないと遅刻しちゃうよ」
「椛で構わないよ、藍田さん」
 セーラー服の少女、坂薙椛は少し疲れた笑顔を返す。モモコは椛の表情に気付くこともなく「大変、もうこんな時間!」とばかりに椛の手を握り、教室へと駆け込んだ。



 いつものように授業が始まった。
 椛は教室の後ろに立ち、その風景を眺めている。駅前留学したという英語の教師は巻き舌を強調しつつ面白くもない英文を読み上げ、何人かの生徒にこれを和訳させた。携帯でメールを打とうとする男子学生は端末を没収され、板書している最中に脱け出そうとした女生徒は黒板消しの直撃を食らって粉まみれになった。
 椛は没収された端末を取り返し、女生徒の髪から白墨の粉を丁寧に払い落とす。教室の中を歩き回っても英語教師は椛の存在に気付かず、それは他の生徒も同様だった。椛は教室の中を歩き、中央に空席が一つあるのを見つけた。おそらく課題であろう印刷物が束になって詰め込まれ、机の上には白墨の粉が埃と一緒に積もっている。

 やがて授業が終わり英語教師が退室すると、椛は大きく一度だけ手を叩いた。柏手のような硬く張り詰めた音に教室の全員が動きを止める。モモコがそうだったように、今度は教室の全員が、発条の壊れた自動人形のようにぎこちない動きと共に椛を注視する。
「この席に座っていた女の子は、どうして休んだのかな」
 生徒の一人が手を上げた。
 生真面目で通る、委員長のような男子生徒だ。
「夕木さんは御両親の離婚がきっかけで不登校になりました」
 別の一人が首を振る。肉付きの良い女生徒だ。
「ひとみちゃんは、自殺未遂でそのまま植物人間になったのよ。あたしのママ、病院の経理だから」
 しばらく沈黙が続いた。

 それを破ったのはモモコだった。
「夕木さんの両親は共働きで、家族より仕事を選んで離婚したわ。だから夕木さんを引き取ったのは彼女のおばあちゃんで、見舞いに来るのもおばあちゃんだけなの」
 別の男子が立ち上がった。
「おれは夕木さんが好きです」
 また別の男子が即座に立ち上がった。
「夕木さんは半年前まで俺と付き合ってたぞ」
 二人の男子が固まる。
「私は、あのコ嫌いよ」女子生徒の一人が抑揚のない声で言う「ちょっと可愛いだけの女じゃない、友達も少ないし。ウリしているって噂も聞いているわ」
「買春の話はわたしも聞いた」「そうだ、日本史の楓とできてるって話だろ」「ぼくが聞いたのは」「あたしの弟が見たって」「ヤクザの愛人が」
 何かをきっかけに、生徒たちは勝手に話し始めた。それは会話として成立するものではなく、連歌のように前の発言を引き金として延延と続けられる言葉遊びに近い。しかも一つの発言は複数の反応を呼び、情報は単純化どころか錯綜していた。

 モモコが叫ぶ。
「二丁目の丸焼きビビンバ検定でちぎった船主色の杯がビタミンB1要求性コンドームすりきり五十オンスで引き回そうとしたら、コナン・ドイルの佃煮が白昼堂々ピンクハリウッド映画並のテクニックで馬頭琴をスープレックス煮たところ横丁のカーネリアン委細面談定食でどひゃあって危険日なのに構わずテナガザルの交尾が紅白ササニシキを」
 意味の通じない叫びはモモコから始まり、それが伝播してクラス全員が唱和するまでになった。日本語として成立しない言葉の羅列でありながら、彼らは一語一句を違えることなく、それどころか息継ぎの間合いさえ全く同じくしている。本職の声楽家でさえ真似できないような完璧な同調発声は感動的であり、それゆえに理解不能の恐怖を生み出す。

「あいわかった」
 唯一の聴衆である椛は再び柏手を打ち、彼らの唱和を止めた。
「では短くまとめて答えよ」

『市立病院の集中治療室にいる夕木ひとみは十日前より植物人間状態だが、脱け出た魂が鬼となって夜な夜な両親を求め街を彷徨っている。彼女を鬼に変えたのは、魂に憑いて精気をすする妖の所業よ』

 モモコの口から、ぞっとするようなしゃがれた声が出てきた。

『妖が憑いて今日が五日。七の夜を迎えれば、身も鬼に取り込まれる』

 言葉はそこで途切れ、モモコと生徒たちは力尽きたように崩れ落ちる。椛は彼女たちには目もくれず教室を退室し、それからしばらく経って生徒たちは何事もなく起き上がると、当たり前のように次の授業を受けた。






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