(四)


 影がある。

 ビルの壁面に映る二つの影。

 ひとつは恐ろしい鬼のもの、もうひとつは鬼より恐ろしいものである。光源を考えればありえざる形と大きさの影だが、夜の街を歩く人でこれに気付くものはいない。鬼の影は建物の壁面を移動し、それを追う椛の影もまた建物の壁面を動く。鬼形の影は他のそれより一際濃い闇色で、ビルの壁面を動けば硬質ガラスの窓に巨大な足型の亀裂が次々と生じる。
 ビルより降る細かな硝子片やコンクリート片に、道行く人々は驚き悲鳴を上げる。数日前の怪異は人々の口に上っていたのだろう、異変と悟るや彼らはすぐさま散るようにして逃げる。

 影は動く。

 椛の姿をした人影が鬼影を蹴るように追い払い、二つの影は路面に下りる。鬼影は車のボンネットを踏んで鉄板に足形を残し、転がれば街灯の柱に爪痕が生じる。実体はなく通り過ぎる者には無害でも、鬼影が地に降り立てば地面が揺れる。ちょっとした地震ほどもある振動は、時折響く金属音と共に次第に遠ざかり、程なくして鬼影は椛の影と共に繁華街より消えた。事情を知ってても逃げるわけにはいかない繁華街の商店主達は脅威が去ったことを感じ取ったが、車も人も消えた通りの至る所に残された鬼の足跡や爪痕を見て震え上がり、店じまいを始めた。



 野の獣は、戦いの流儀など持たない。
 親より子に継がれ同腹の子らが戯れの中で身につけるものはあっても、それは技ではない。野の獣がひとりでに身につけるそれは、人が生涯をかけて学ぶ技を容易に越える。獣の力は究極の合理性であり、それ自身が森羅万象の真理でもあるのだ。
 ゆえに、戦いに臨む野の獣に無駄はない。いかなる動きでさえ意味が存在し、それを見誤れば致命となる一撃を身の内に喰らうことになる。身の丈ならば人の半分にも満たぬ犬相手でさえ、徒手空拳で猛り狂うこれに勝つことは難しい。
 逃げることもかなわず覚悟を決めた獣は、人が想像もできぬ恐ろしい力を発揮する。椛の前に立つ鬼もまた獣、それも逃げ場を失った手負いの野獣である。油断という言葉は今の鬼にはない。腕一本切り落とされ自らの懐ともいうべき世界に踏み込まれ、鬼は迂闊に動くこともできずにいる。

 鬼の腕を切った椛の技は、恐るべきものだった。
 彼女が構える大太刀もまた尋常ならざる力を宿し、闇を震わせる。
 迂闊に退こうとすれば、その隙を逃すことなく致命の一刀が繰り出されるのは必死。鬼は最初、なにをおいても逃げることを考えた。どれほどの力を尽くそうと、自分を追う椛の力量は鬼のそれを凌駕しているのは分かっていたのだ。
 闇にある鬼の動きは、水を得た魚にも勝る。
 ましてや人にとっては勝手の知れぬ闇の中、これが影使いならば話も違うが、椛には影使い独特の気配はない。だというのに彼女は驚くほどの身のこなしで闇の中を動き、逃げる鬼を追い詰める。もはやそれは単に体術と呼べるものではなく、あと数歩詰めれば刃を踏み込めるまでの間合いとなって鬼は逃げるのを止めた。
 こうなってしまえば、背を向けるなどもってのほか。
 生き残るためには正面より向き合い、椛の動きを見極めるのみである。目の動き、腕の動き、脚の動き、全身の筋肉という筋肉の動きを見極め、その力み具合より数瞬先の行動を予測し対応する。
 もはやそれは理性の及ぶ領分ではなく、研ぎ澄まされた獣性のみがこれを可能とさせる。
 ならば。

 鬼は極度の緊張状態下にあって自身が充実していることを理解した。その闘争が野獣のそれだとしても、鬼は単なる獣ではない。獣の王者でもない。鬼は激情より生まれた獣性ではあるが、人の知もまた有しているのだ。たとえその知が齢十七に届かぬ少女のものだとしても、野犬ならば天寿を全うするに足る時の流れは確かに鬼の獣性に力を与える。
 鬼と椛の距離は、大太刀を届かせるには未だ僅かに遠い。肉を裂き骨を絶つには踏み込まねばならない。その時の動きこそ、鬼にとっては必勝の契機となる。

 鬼は吠える。
 嘆きや悲しみによる慟哭ではなく、自らの生命存在を賭けた戦いに挑むための宣誓である。己が存在し続けるには、一撃で椛を退けねばならない。ぎりぎりと引き絞った弓のように己の筋と肉に力を蓄え、全ての感覚器官を動員して椛の出方を待つ。来る方向さえわかれば、今の鬼は銃弾の動きさえ捉える自信がある。椛が驚くべき体術を駆使し電光石火の一撃を放てたとしても、人間の膂力で繰り出す刃の動きは鬼にとっては緩慢なものだ。

 凛。

 鈴にも似た、硬く澄んだ音が闇に響く。
 その瞬間を隙とみて鬼は持てる力の全てを込める。鋭い爪を生やし指をそろえ、武術でいう貫手にも似た構えで突いた腕が椛の胴を穿つ。弓矢より銃弾より速く、それは椛を絶命させたはずだった。

 が。

「お見事」
 空を切れど貫手に手応えはなく、渾身の一撃を称賛する椛の声は鬼の背後から。貫く寸前まで正面を凝視していた鬼は、いつの間にか椛がそこにいるのを知って慄然とした。
 鬼の背後に立つ椛は大太刀を鞘に収め、振り返ろうともしない。鬼の背中越しに聞こえるのは金物が白木に擦れる僅かな音で、彼女の抜刀が既に終わったことを鬼に告げた。
 あまりにも呆気なく。

 鬼は動けない。何事が己の身に起こったのかさえ分からず、視線を動かすこともできずにいる。自分は確かに椛の動きを把握できたはずだ、一秒にも満たないほどの時間ではないか。鬼は震えながらも自問を繰り返す。
 どうして。
 かすれるように、咽を震わせる鬼。
「それを恐怖と呼ぶのだ、我々人間はな」
 椛の言葉と共に肉瘤のような鬼の角が付け根より落ちる。そこに角があったことなど感じさせない、滑らかな切り口だ。やや間を置き鬼はよろめくと眉間より白色の霧を、身中に蓄えていた瘴気を一気に噴出する。

 ぐらり。

 倒れてからも鬼の眉間より噴き出す瘴気は止まらない。鬼を鬼たらしめていた瘴気が抜けていくのだから肉も骨もまとめて痩せ細り、鬼の身体は見る見る縮み人の姿へと戻っていく。

 ものの数秒。倒れ伏す人影は夕木ひとみとなった。
 無論これは彼女の本体ではない、肉体より遊離した魂の形だ。鬼の姿より戻ったのは、彼女に宿った魔性が離れたためである。やがて全ての瘴気を吐き出した彼女の姿は霞となって闇より消え、椛のみがそこに残る。

 否。
 椛は収めた鞘を手に、腰をやや落とした。居合いの構えにも似ているが、女性にしては長身の部類に入る彼女でも二尺六寸の大太刀は手に余る。ただ引き抜くだけでも難しい大太刀を抜刀と共に振り斬るには、膂力や素早さを越えた体捌きの技量が求められる。尋常ならざる体術の持ち主である椛だからこそ大太刀を自在に操り、構えにも熟達としたものがあった。
 椛は構えを解かず、正面に澱む闇を鋭い眼差しで睨めつけている。

「たとえ激情が鬼を成そうとも、そこに瘴気の誘いがなければ人は鬼には変じたりはしない」

 朗々とした、椛の声が闇の中に響く。先刻の鈴の音にも負けず、椛の発する言葉が闇を震わせる。
「生まれて日の浅い鬼が影に潜る結界を生むという話も、聞いたことがない。人を鬼に転じさせるのは人の業だが、人の業を萌芽させるのは貴様のような妖の他にはない」

 誰もいないはずの闇を凝視し、強く息を吐く。
 闇の向こうに何かが潜むのではなく、眼前に漂う闇こそが妖の変じた姿。妖としての気配を消し鬼にさえ気付かれることなく漂っていたのだが、椛はこれを見抜いていたのだ。
「夕木ひとみの御霊は返して頂いた。とはいえ貴様を放置すれば、魂を蝕まれ新たな鬼が生まれるのは必至。ならば今、この場で禍の根を絶たせてもらう」

 凛。

 椛の言葉と共に闇が揺れる。
 闇は最初、椛の前より去ろうとした。流動する闇と化した妖は、牙を立てようと爪で裂こうと全く傷つかない。闇を葬るには強い光を用いるか、五行に通じた法力が要る。尋常ならざる力を宿す大太刀であろうと、物理的な攻撃である以上は例外ではないのだが。

「逃げられぬよ」静かに呟く椛「御霊を斬る我が刃、霞を斬れぬと思うか」
 言うや抜き打ち気味に大太刀を横に一閃。

 淡く蒼い光を帯びた刀身が彗星のように軌跡を残せば、分断された闇の片側が絶叫と共に一気に拡散する。薄紙が炎に舐められるようにして闇の半分が消えれば、乳白色の弱弱しい光が差し込む。それは紙一枚ほど隔てられた現世より漏れる街の灯りである。
 残る闇は言葉にならぬ怒号を発し、霞のような闇を凝集させ生み出した闇色の棘を無数に伸ばして椛の体を貫く。
 いや。鬼の貫手がそうだったように、闇色の棘もまた椛の身体を刺すことはなかった。闇色の棘はまとめて大太刀に薙ぎ払われ、塵となる。闇と化した妖がそうであるように、椛もまた法力の類でなければ傷つけられぬのかもしれない。そうでなければ説明がつかぬと、慄く妖。

 凛。

 波打つ重油のように、残された闇が一点に凝集する。閉ざされた世界の創造主は、漂う闇であることをやめ、その本性を現した。凝集した闇は義体となり、人の手足を伸ばし、鱗粉を含む羽根を生やす。一呼吸の間も待たずに妖は本来の姿に戻った。
 例えるならば、女人の姿を真似た蝶。それも鴉揚羽のような、黒曜石にも似た輝きを持っている。月夜の下で見ればたとえ毒蛾であろうと心を奪われるかもしれない、異形の美。それが羽ばたくこともなく宙に浮き、椛を見下ろす。
 見た目に傷はない。椛の斬撃など毛ほどの痛みでもないと虚勢を張っているが、膨れ上がる殺気は妖の怒りと戸惑いを何よりも物語っていた。

「鬼狩りの血族か」
 鈴を転がすような声を震わせて、妖。椛は答えず、靴底を擦らせるように半歩踏み込む。
 話し合いで解決させる気など両者にはない。椛は鬼となる者をこれ以上増やさぬため妖を斬る、妖は己が生きていくために椛を倒さねばならない。実体を晒せばますます刃の脅威は増す、それでも椛を葬るべく妖力を使うには本性に戻る必要があった。
 この女、果たして何者なのか。
 妖は対峙する椛を凝視しつつ、彼女の素性を探ろうとした。妖の類と対峙する術者の系譜には違いない、椛の手にある大太刀は妖の化身である闇霞さえ切り裂く尋常ならざるものである。その妖刀を自在に使い、なおかつ大太刀の力に侵されぬ椛を単なる剣術家などと妖は考えたりはしない。

 人は本能で闇を恐れるものだ。
 その闇に白刃を突き立てこれを切り裂く椛は、妖が知る人間の本質には当てはまらない。妖は羽根を動かし毒気を含む鱗粉を撒き散らすが、下段より振り上げる大太刀の起こす剣風は毒気に汚れた空を文字通り引き裂いた。
 絶叫する妖。
「貴様は何者だ。修羅の姫か!」
「……坂薙の御子、椛」

 凛。

 鱗粉は椛に触れることなく吹き飛び、大太刀の発する剣風を受けて塵となる。
 鱗粉だけではない。
 黒曜石のような蝶の羽根もまた根元より断ち切られ、塵と化した。
 妖は己の感覚を疑った。椛が放ったのは、ただ一撃のはず。
「何故だ!」
 叫び疑ったところで現実は変わらない。狼狽する妖は両腕に鉤爪を生やし椛を引き裂こうとする。

 凛。

 生やした鉤爪が、その腕ごと細切れとなってこぼれ落ちて塵となる。腕だけではなく、亀裂は全身至る所に生じている。
 いつの間に。
 妖の問いが言葉となることはなかった。妖の視界は砕けた硝子板のように数十に分割され、視界もろとも全身が崩壊して消えた。もはや一握の瘴気すら残らぬ閉じた世界は、その役目を終え創造主の後を追う。

 凛。

 大太刀は鞘ごと闇に消え、椛は街中に降り立つ。
 人が逃げて久しく店もほぼ全てが閉まり半ばゴーストタウンと化した夜の街をしばし眺め、やりすぎたかな、と小さく呟くと椛もまた夜の街を去った。






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